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徒然に思いついたことを・・・
by f-liberal
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古に学ぶ
 近頃は、諸般の事情から古書を入手して読むことがある。今から数十年前に書かれた本の内容が未だ色褪せずに異彩を放っていることに気づいたりもする。もっとも、それはその本が書かれた当時の日本社会の状況と今日のそれとがあまり代わり映えしない、つまり改善・成長していないか又は悪化していることの証左なのであるが。

 
そんなことを思いつつ漸く読了した絶版書の中から気に留めた記述を紹介する。

 以下の文章は、『刑事訴訟法史』(沢登佳人・沢登俊雄著、風媒社刊、1968年第1刷発行)から引用。(注)一部の漢数字は便宜上算用数字に変換。




ロシヤのごとく資本主義がもっと未成熟でしたがって農業機構もずっと封建的なところならばそれは直ちに社会主義革命につながるが、すでに相当高度に資本主義が発達し大地主制の商品経済への適合度も大きかったドイツでは、国家社会の階級構造の中における資本家階級の相対的力も大きい上に大地主階級との階級的連帯も強いから、労働者・農民・社会主義政党が革命の主導権を独占することはできず、かくて両者の妥協の上に新国家体制が築かれることになる。ワイマール体制がそれで、多数派社会主義政党がブルジョアと手を組んで極左を抑え、資本主義経済機構を基盤とする近代民主主義国家社会体制に労働者階級の権利・自由・経済的利益の保障・確保の要求をも織り込んだ、中途半端でかつ当時のドイツ資本主義の現実の力やドイツ国家社会の現実の階級構造から言えば実現可能性の極めて薄い、一種の机上のプラン的体制であった。ゆえに、1923年から29年にかけての小康期を経て1929年から33年にわたる世界恐慌の訪れにより、せっかく再建しかかったドイツ資本主義が再度絶望的な苦境に追いこまれるや、もはやこの中途半端な体制にはこれを克服する能力なきことが明瞭となり、ドイツ人は社会主義か、それとも資本主義建てなおしのための(近代民主主義や法治主義の枠内では不可能な)強権的体制変革かの、決定的選択を迫られることになる。そして労働者階級・社会主義勢力の相対的弱体性のゆえに、前の道はとられず、結局第二の危険な道すなわちヒトラーの道が選ばれたのである。ヒトラーはドイツの苦境を資本主義の責めに帰さず、連合国が敗戦国に課したヴェルサーィユ体制の責めに帰し帝国主義的巻き返しによるドイツ資本主義の再建・強化を主張し、そのような力の政策は国家社会の総力を結集せねばならず、そのような結集は個人の自由を基調とする近代民主主義・法治主義体制の下では不可能であるとして、全権を一人の独裁者の手にゆだねる全体主義国家体制を要求した。そして社会主義への道を拒むドイツの資本家たちは、自分たちの救われる唯一の道と考えて進んでヒトラーに協力したのである。そして一般民衆も、社会主義への道が塞がれている以上、これがドイツの進むべき一本道と考えてヒトラーにすべてを託した。全体主義の悪夢の去った今日、あれはヒトラーの狂気の産物だとか、ドイツ人の民族性によるのだとか、いろいろ言われるが、以上のごとくそれは正に歴史的必然の産物である。要するに、資本主義が苦境に陥りしかも社会主義革命が成功する程には相対的に資本主義の力が弱くないところでは、いつでもどこでも資本家は近代民主主義・法治主義をかなぐり捨てて独裁者と手を握るのである。ヒトラーの強烈な個性はただその必然を派手にどぎつく演出してみせたにすぎない。


★この部分は、ドイツの社会史的経緯に触れた部分である。歴史的事実と著者の歴史観が披露されている。ここで注目すべきは、末尾の赤字の部分。「ヒトラー」を「小泉」にでも置き換えれば、財界が武器輸出の緩和まで求め始めた現代日本の状況にも符合するのではないだろうか。★




会議は討議と批判の自由があるだけで民主的であるのではない。決定に対してすべての成員が平等に影響力を持ちうることによって民主的なのである。


★民主制の本質は個人の人格的価値の平等を承認すること。そのことからすれば、上記のことは自明の理のはず。しかし、現実社会はその理念とは大きくかけ離れている。選挙の際にいつも問われる「投票価値の不平等(一票の格差)」。この問題は、正に上記に反した現行選挙制度を根源としている。我々の人格的平等は我々が意識せざるところでないがしろにされているのだ。★




いったい人は専門家というものを高く買いかぶりすぎる傾向がある。なるほど僕が聖目に風鈴をつけても呉清源や林海峯に碁で勝つわけにはゆかないし、百万年考えても中間子理論はおろか三平方の定理だって発見できっこない。地球は太陽のまわりを廻っているそうだが、何故そうなのか天文学者に聞かないかぎり納得のゆく説明ができるものですか。けれども彼らが僕と隔段に違うのは技術の面においてなのだ。裁判の専門家たる裁判官は裁判技術の点ではたしかに僕より数等優れていよう。だから陪審制度が採用された暁には、裁判官諸公よ、その有能な技術をもって、陪審員の判断を誤らしめないため、訴訟指揮には万全を期し、説示はことに綿密周到、懇切丁寧を旨とせられたい。けれども責任感が強いか弱いか、悪意によって評決の公正が歪められるか否か、人間として優良か劣等か、感情に動かされるか否か、利に動かされ易いかどうかなど、技術よりもむしろ人となりが問題であるような場面では、専門家と素人、裁判官と陪審員との間にどの程度の差異があるか私は疑う。六法全書の研究は決して人の品性を向上させはしない(「むしろ下落させることはあっても」と付け加えたいのは山々だが、大学法科の教科書たらんことを期している本書にとって、学生の向学心に悪影響を及ぼすおそれのあるこの言葉はふさわしくないので割愛する。)。


★日本でも5年後には「裁判員制度」が始まる。刑事司法の根本改革を行う中での「陪審制復活・導入」とはならなかった「裁判員制度」。それ故に、色々と問題を抱えての船出(腐敗した現行制度よりも更に冤罪を量産するのではないかとの危惧あり)となるだろうが、始めるからには市民の自由・権利の砦としての機能を営むように育てていかなくてはならない。上記の言は、裁判員に選ばれた者の心構えに相応しい。裁判官と我々とは人として対等に合議する資質を有している。何を遠慮する必要があろうか。★





現行法は被疑者や被告人の保護を厚くしすぎて、犯罪鎮圧の効果があがらぬという議論は、一寸聞くともっともらしいが、これ程空々しい嘘もないものだ。かような意見は、時の権力者にとって好ましからぬ思想や行動を鎮圧することがすなわち犯罪の鎮圧であるとするならば、正にその通りであるが、政治的思想的色彩のない通常の、しかして国民の安寧幸福と社会の健全な秩序風俗にとって真に危険な犯罪を鎮圧する場合についていえば、真赤ないつわりという外はない。くり返していうが、読者よ、だまされてはならぬ。真に国民の敵である犯罪は、被疑者や被告人の保護を厚くすればする程より効果的に鎮圧できる。
 刑事手続の歴史がこれを証明している。


★益々騙される日本人が増えているのではないか。メディアによる事件報道の煽りや被害者感情を利用した権力当局の策動によって。日本人の殺人率は低下しているというのに。★
by f-liberal | 2004-10-03 20:00 |
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